山次 康幸
はじめに
「ウイルス」と聞くと何か得体のしれない病原体というイメージがわく(1)。ただ世界中に吹き荒れた新型コロナウイルス感染症のせいで、図らずも「ウイルス」に対する世間からの理解が深まったのではないだろうか。一方で農業分野では、植物のウイルス病はその被害の大きさに反して、化学農薬の開発対象としては意外にもマイナーな存在である。その理由は、植物ウイルスに対する特効薬開発が非常に困難だからである。しかし、世界的な食料価格の高騰や農地も含めた環境保護が注目を浴びる今日、植物ウイルス病による甚大な被害を野放しにしておくことは得策ではない。そこで、本稿では植物ウイルスについて解説し、植物ウイルス病の発生を防ぐ手立てについて考えてみたい。
ウイルスの本体
世界で初めて発見されたウイルスはヒトでも家畜でもなく、植物のウイルスであった。今から120年以上前の1898年に、オランダ、ワーゲニンゲン大学のマルティヌス・ベイエリンク博士により初めて見出されたタバコモザイクウイルス(tobacco mosaic virus, TMV)である(2)。それ以降、数千種もの多様な植物ウイルスが発見され、現在も新たな報告が続いている。ちなみに、人類史上最も古い植物ウイルス病の記録は、孝謙天皇がヒヨドリバナの黄化症状(葉が黄色くなる)について詠んだ和歌が収められた万葉集である(3)。
ウイルスの最大の特徴は小さいことである。光学顕微鏡ではなく電子顕微鏡でようやく観察できる。「植物」と「植物ウイルス」の大きさの関係は、「日本の本州」と「30センチ定規」の関係に相当する。
植物ウイルスは、その構造も非常に単純である。TMVの粒子は、1本のらせん状の核酸(RNA)の糸に約2000個の外被タンパク質が数珠玉のようにらせん状にぎっしり紡(つむ)がれた円柱状の構造である(図1)。また、この核酸のことをゲノムというが、ヒトのゲノムが約2万個程度のタンパク質の遺伝情報を格納しているのに対し、TMVのゲノムはたかだか3個程度にすぎない。そのうちの1つが外被タンパク質であり、TMV粒子が構成されているのであるが、動植物のウイルスを通じてウイルスの結晶化に世界で初めて成功し、それが感染力を持つことを証明したのはTMVを用いたウェンデル・スタンリーであり(4)、ノーベル賞を受賞した。また、TMVのらせん構造を提案したのはDNAの二重らせん構造を解明したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックのグループであり、最終的に粒子構造を決定したのはロザリンド・フランクリンとアーロン・クルーグである(5)。アーロン・クルーグはノーベル賞を受賞し(フランクリンは逝去のため未受賞)、TMV粒子の研究だけで二度のノーベル賞受賞に寄与している。
症状と被害
ウイルスに感染すると植物は様々な症状(病徴)を示すが、葉や根など局所的に症状が現れることの多い菌類と比べて、全身的な症状を示すことが多い(図2)。最も典型的な症状は葉の色がまだらになり、時に奇形を伴うモザイク症状である。このほか、萎縮、えそ、黄化、斑点、花弁の斑入りなど色々な症状がある。ウイルスと植物の組み合わせによっては、無病徴(潜在)感染することも多く、植物(作物)の輸出入に乗じたウイルスの侵入が見過ごされる一因である。
穀物、野菜、花き、果樹などあらゆる植物でウイルス病による被害が起こっている。海外の核果類生産に甚大な被害を与えていたプラムポックスウイルスが2009年に国内のウメで発見され、梅干の生産や観光産業に大きな被害を与えた(6)。
診断
植物ウイルスは小さいので、昔は電子顕微鏡を備えた研究機関でないと診断できなかったが、現在では診断キットを利用できるようになった。抗原検査や遺伝子検査があるが、新型コロナウイルスのせいですっかり一般にもなじみのある呼び名となった。前者はELISA法やイムノクロマト法など、後者はPCR法やLAMP法などがある(7)。なかでもLAMP法は高感度なわりに高価な設備や機器を必要としないので、農業生産現場で今後ますます利用されるようになるだろう。
伝染拡大と対策
植物ウイルスの伝染拡大は、植物の汁液に触れた手やはさみなどの器具や農業機械、植物同士の接触によって起こるほか、媒介生物(昆虫や線虫や菌類など)による伝搬、種子伝染や(イモなどの)栄養繁殖器官を介した伝染などによって起こる。そのため、ウイルスの蔓延を防ぐには農機具・農業機械などの消毒も重要である。また、媒介生物については、殺虫剤などを用いた駆除が有効である。ただし、植物ウイルスの種類によって媒介生物は大きく異なるため、その特性に合わせた対策が重要である。一般に植物ウイルスそのものの防除は困難であり、感染植物の抜き取りや伐採など感染拡大防止に多大な労力を要することも多い。
植物ウイルスが防除困難である理由の1つがウイルスを不活化する安価な化学農薬が存在しないことである。技術的に開発は可能であるが、ヒトの抗ウイルス剤と異なり、金に糸目をつけず購入する訳にいかないのが障壁となっている。ただ、感染予防剤としてレンテミン(商品名)が長年用いられているほか、最近は、一部のプラントアクチベーター(植物が本来持っている免疫力を高めることで耐病性を向上させる薬剤)などがウイルスに効くことが分かってきた。
応用
植物ウイルスに関する研究は直接あるいは間接的に私達の生活に様々な形で貢献している。最後にその一例を紹介する。新型コロナウイルスの陰に隠れてしまった感があるが、2014年に西アフリカでエボラ出血熱が大流行した際に、その特効薬としてZMAPP(抗体薬)という薬が用いられ、結構効果があった。実はこの薬は、このウイルスに対する抗体タンパク質の遺伝子を植物ウイルスに組み込んでつくられた。このウイルスを植物に感染させ、同時にできたZMAPPを大量に精製したのである。このように植物ウイルスを用いた創薬・抗体製造はコストが安いので、近年注目を集めている。
引用文献
- 東京大学医学部・医学部附属病院 健康と医学の博物館「見えざるウイルスの世界」(2023年4月10日閲覧)
- 池上正人・上田一郎・奥野哲郎・夏秋啓子・難波成任(2009)「植物ウイルス学」 朝倉書店 pp. 1–8.
- 大阪公立大学農学部 植物病理学研究グループ ホームページ「植物病と万葉集」(2023年4月10日閲覧)
- 桜井弘(2021)「コロナ禍で思う宮沢賢治(2)」 大阪市立科学館 ホームページ(2023年4月10日閲覧)
- Nature Japan(2020)「ロザリンド・フランクリンの遺産」 Nature ダイジェスト 17:10 DOI: 10.1038/ndigest.2020.201045
- 難波成任(2009)「我が国への侵入が警戒されていた植物病原ウイルス plum pox virus(プラムポックスウイルス)の国内における発生について」 東京大学大学院農学生命科学研究科 プレスリリース
- 前島健作・難波成任(2010)「ウメ輪紋ウイルス(plum pox virus)の検定法」 植物防疫所病害虫情報 91: 3–4.